[編集部より] 今月号より3回は、2026年3月、バンクーバーで開催された Association for Asian Studies 年次大会のパネルセッション「Beyond Hype: Use Cases and Evaluations of Artificial Intelligence in East Asian Studies」における趣旨紹介と、以下の3名による発表を1件ずつ掲載いたします。
2022年末以降、生成 AI は学術的な議論のあらゆる場面で取り上げられるようになった。新しいモデル、新しいベンチマーク、そして能力に関する新しい主張が、ほぼ毎週のように登場している。しかし、東アジア研究にとって、実践的な問いの多くはまだほとんど答えられていない。これらのツールは、古典中国語、写本目録、仏典翻訳、日本詩歌に対して、実際には何ができるのか。どこで失敗するのか。そして、「成功」は誰の基準によって定義されているのか。過大な期待や宣伝は、この分野が必要としている慎重で領域固有の検証よりも、はるかに速い速度で進んでいる。
AAS 2026のパネル「Beyond Hype: Use Cases and Evaluations of Artificial Intelligence in East Asian Studies」は、京都大学の邱琬淳(Wan-Chun Chiu)によって企画・司会されたものであり、まさにこのギャップを出発点としていた。出発点となったのは、AI を汎用的で万能な道具として扱うべきではない、という認識である。その価値は、この分野の研究者がすでに適用している言語的・歴史的・文化的基準に照らして、AI を検証し評価できるかどうかにかかっている。流暢な古典中国語を生成するモデルと、文献学的に正しい判断を行うモデルとは同じではない。非専門家にはもっともらしく聞こえる回答が、研究者の時間を浪費させる、自信満々の誤答そのものである場合もある。
このパネルの各発表は、広い範囲に及んでいた。一部は応用的なものであり、初期中国仏教における翻訳者帰属の問題に深層学習を適用する試みや、デジタル化された古典籍を大規模に統合するためのAI駆動型インフラに関するものであった。他方で、批判的な発表もあった。AI 評価が「人類最後の試験」を測定すると主張するとき、実際には何を測っており、何を見落としているのかを精査するものである。この組み合わせは意図的なものだった。批判的評価を伴わない実践的応用は、他者の前提によって形づくられた道へとこの分野を導いてしまう可能性がある。逆に、実践的作業を伴わない批判的評価は、純粋に抽象的なものになりかねない。パネルは、この両者を同時に保持しようとしたのである。
すべての発表を貫いていた共通の軸があった。いずれの発表も、AI を称賛するか拒絶するかの対象として、完成済みの製品のように扱ってはいなかった。むしろ、AI を、いまだその形が定まりつつあるものとして扱っていた。その形は、技術者、ベンチマーク設計者、そして何をデジタル化し、何を翻訳し、何を検証対象とするかを選ぶ人々によって決定されつつある。問題は、AI がこの分野のために何かをできるかどうかではなく、AI が誰の基準によって構築されつつあるのか、そして研究者たちが自分たちの基準をその議論の一部にするにはどうすればよいのか、ということであった。
会場そのものも、この問題意識を反映していた。参加者には、東アジアおよび北米各地から集まった歴史家、文献学者、図書館員、デジタル・ヒューマニストが含まれていた。多くの参加者は、自らのテキスト伝統について明確な専門知を持ち、機械学習に対してもはっきりとした懐疑を抱いていた。発表は、そのような聴衆に届くように設計されていた。技術的な予備知識を前提とはしなかったが、技術的な論点を薄めることもしなかった。それは、ふだんならこの種の議論の周縁にとどまりがちな研究者たちに対して、AI 評価という分野がまだ十分に変えられる余地を持っている今のうちに、自分たちの問いと基準を携えて議論に加わるよう促すものだった。
最初の発表は、浙江大学の Lu Lu によるもので、共著者は鄭伊(Yi Zheng)であった。題目は「From Dao’an to Deep Learning: Revisiting the Reliability of Lokakṣema’s Translations」であり、現代の機械学習が、初期中国仏教研究における長年の問題、すなわち後漢期の翻訳コーパスのうち、どのテキストを本当に支婁迦讖(Lokakṣema)の訳と見なせるのか、という問題をどのように精緻化しうるかを検討するものであった[1]。
この問題は新しいものではない。千年以上にわたり、このコーパスにおける翻訳者の同定は、二種類の証拠に依拠してきた。第一は、道安(312–385)の目録上の記録であり、これは僧祐の『出三藏記集』(515)に保存されている。第二は、内的な文献学的証拠である。すなわち、翻訳者ごとの特徴を示す語彙、文法、文体上の傾向である。いずれの証拠も不可欠であるが、同時にいずれも不安定さを免れない。目録は編集され、書写され、伝承されてきたものである。また、術語は、後代の翻訳者集団が異なる訳語慣例に従って作業を行うなかで、体系的に置き換えられることもあった。その結果、比較的よく裏づけられた訳者同定であっても、その根拠は必ずしも均質で確固たるものではない。
Jan Nattier の2008年の研究は、この複雑な状況に大きな整理を与えた。彼女は、支婁迦讖に帰される諸作品を信頼度に応じて段階的に分類し、その判断の拠点として二つの中核的な基準テキストを据えた。すなわち、『道行般若経』(T224)と、『般舟三昧経』(T418)のうち改訂を受けていない散文部分である[2]。 Lu と Zheng は、これを出発点として、深層表現学習が Nattier の分類を検証し、精緻化し、場合によっては再考を促す新たな手段となりうるかを問うた。
技術的な方法は二段階から成っていた。第一に、彼らは大規模な仏教文献コーパスを用いて、領域特化型の対照学習モデルを訓練した。対照学習は、特定の語彙項目だけでなく、より広い文体的特徴や共起関係を捉える文埋め込みを生成する。この点は重要である。というのも、最も標準化されやすい特徴、すなわち術語こそが、後代の編集的・翻訳史的な置換に最も影響されやすい特徴でもあるからである。より広範なパターンに注目することで、埋め込みはその種の改訂に対して、より頑健な指標となることが期待される。
第二に、彼らは二つの中核的な基準テキストを用いて一つのクラス分類器を訓練し、「支婁迦讖らしい」散文がどのような分布をなすのかを学習させた。そのうえで、他のテキストを同じ方法で符号化し、この学習された境界に照らして判定する。境界の内側に位置するテキストは、暫定的に支婁迦讖の文体と整合的であると見なされる。一方、境界の外側に位置するテキストは、文献学的再検討を要する候補として抽出される。
Lu は、この方法の貢献を、従来の文献学的な訳者同定に取って代わるものではなく、それを補完するものとして慎重に位置づけた。モデルは結論そのものではなく、再検討すべき箇所を見つけるための視点を提供するものである。彼女によれば、最も興味深いのは、モデルと目録上の記録が一致する事例ではない。そうした事例は、既存の判断を確認するものにとどまる。むしろ重要なのは、両者が食い違う場合、あるいはモデルのスコアが判定境界付近に位置する場合である。そこでは、目録上の伝承、内的な文体的特徴、そして現代的な文体計量的指標が、それぞれ少しずつ異なる情報を示している。そのようなテキストこそ、慎重な精読と文献学的検討が最も生産的に働く可能性が高い。発表は、支婁迦讖コーパスについてのより精緻な見通しを提示するとともに、同様の訳者同定の問題を抱える他の初期翻訳者のコーパスにも、原理的には応用可能なワークフローを示すものであった。
(訳:永崎研宣)
古代末期エジプトのキリスト教化(紀元後3~5世紀)は、これまで主に教父文献や教会史叙述といった伝世テクストに依拠して論じられてきた。しかし過去20年で、ナイル流域および西方砂漠(バハレイヤ、ハルガ、ダフラといったオアシス群)から大量の未刊行考古資料――教会跡や修道院遺構、パピルスやオストラコン(陶片に記された文書類)、碑文、陶器、織物――が蓄積され、文献中心の通説的歴史像(修道制の単線的展開、都市から農村への一方向的布教、帝国権力による上からの改宗など)を再検証する条件が整いつつある。本稿で紹介する DEChriM プロジェクトは、この物質的証拠を全面的にデジタル基盤上で組織化し、歴史叙述の前提そのものを問い直そうとする国際共同研究である。
DEChriM(Deconstructing Early Christian Metanarratives: Fourth-Century Egyptian Christianity in the Light of Material Evidence、「初期キリスト教メタナラティヴの脱構築」)は、ノルウェー神学・宗教・社会学高等学院(MF vitenskapelig høyskole)の研究センター MF CASR を拠点として2019年9月から2025年8月まで遂行された大型共同研究である(図1)。主任研究者はギリシア・コプト・パピルス学および考古学を専門とするヴィクトル・ギカ(Victor Ghica)教授で、欧州研究会議(ERC)の独立移行助成金(Horizon 2020、助成番号819368、総額1,718,980ユーロ)の支援を受ける[1]。
考古学、パピルス学(ギリシア語・コプト語・古典シリア語)、碑文学、陶器研究、人文情報学、3D 建築復元、フォトグラメトリーなど多分野の専門家が参加し、エジプト考古省およびフランス東洋考古学研究所(IFAO)と連携した。プロジェクトが目指すのは、単一の壮大な物語を別の物語で置き換えることではなく、地域ごとに高解像度で文脈化された複数の「ミクロナラティヴ」を積層していくことである[2]。

成果の中核は2021年公開の二つのデータベース4CARE と SKOS である(図2)。4CARE(4th-Century Christian Archaeological Record of Egypt)は、教会・修道院などの建築遺構と、文字資料(パピルス・オストラコン・碑文)および非文字資料(陶器・織物・装身具・典礼具)を遺跡単位で結ぶ関係データベースである[4]。

人文情報学的に最も興味深いのは、各資料の「キリスト教関連性」を判定するための分析指標(Christian markers)が明示的にコード化されている点である。ノミナ・サクラ(神・キリスト等の聖名を略記する初期キリスト教正書法)、コプト語(古代エジプト語の最終段階を表すギリシア文字ベースの言語)の使用、キリスト教的図像、聖職者や教会制度への言及、キリスト教的人名、修道院的出土文脈などが信仰の指標として記述子に組み込まれ、文書ジャンル(聖書・外典・典礼・呪術・行政文書)と多次元的に交差する分類が可能である。マニ教関連資料も社会的文脈を理由に意図的に収載される点は、データベース設計が中立的な容器ではなく解釈仮説そのものを実装した研究装置であることを端的に示す[6]。
個別の遺跡レコードを実際に開くと、データモデルの設計思想がより具体的に見て取れる(図3)。たとえばハルガ・オアシス北部の4世紀修道院複合体 Dayr Muṣṭafā Kāšif(DEChriM ID 17)のページには、アラビア語・フランス語・英語各表記の多言語化された遺跡名、Leaflet によるインタラクティブな site map に加え、Trismegistos GeoID 59094、Pleiades ID 776168、PAThs ID 413 という三つの主要古代世界ガゼッティアへの永続識別子が明示的に保持されている。さらに JSON 形式での機械可読データを直接 View / Download できるインタフェース、関連遺物への内部リンク、外部の Metropolitan Museum of Art や SKOS データベースへの参照、そしてフォトグラメトリーに基づく地図画像とフィールド写真ギャラリーが同一画面に統合される。4CARE が単独のサイロではなく、Linked Open Data としての相互運用性を備えた知識基盤として設計されていることが端的に示されている[7]。

SKOS(South Kharga Oasis Survey)は、IFAO が2001~2013年に実施した広域踏査の成果を継承するガゼッティアで、290遺跡・3,164サブサイトを収録する。元来 PostgreSQL ベースの GIS データベースとして構築されたものをウェブ公開用に再設計し、4世紀キリスト教資料を地域史・交通路・居住史の中に位置づける[9]。
DEChriMの方法論的特徴は、(1) GIS による空間分析、(2) 関係 DB による文字・非文字資料の統合、(3) フォトグラメトリー(写真群から3D モデルを生成する Structure from Motion 技術)と建築復元、(4) 大規模な放射性炭素年代測定(IFAO、ヴィリニュス大学、フローニンゲン大学、Beta Analytic 社の4機関)、(5) プロソポグラフィ(人物伝記情報の集成)的検索の有機的統合にある。
たとえばハルガ・オアシスの Ganub Qasr al-‘Aguz では「科学的に年代決定された世界最古の修道院」が、Dayr Muṣṭafā Kāšif や Šams al-Dīn では4世紀の修道共同体や教会と神殿の併存遺跡が、それぞれ精密な絶対年代とともに記録された[10]。3D 可視化は、急速に劣化する泥煉瓦建築の救済的アーカイヴ化であると同時に、肉眼では捉えがたい層位的接合痕や建築フェーズを可視化する認識論的ツールとしても機能している。
DEChriM の意義は、Papyri.info[11]など、既存のパピルス学的 DH 基盤との並置によって一層明瞭となる。これら諸基盤と DEChriM をつなぐ実質的な相互運用キーは TM number[12]であり、これを介して Papyri.info の翻刻、Coptic SCRIPTORIUM[13]の言語注釈、Elephantine Project[14]の画像データへの遷移が原理的に可能である。文字テクストを独立したレイヤーとしてではなく地点・遺物に紐づけて配置する DEChriM の設計思想は、文字中心的アプローチを補完する「物質的文献学」(material philology: テクストを脱物質化された記号列ではなく物質的人工物として研究する立場)の視座を提供する点で意義深い。
DEChriM は2025年8月にプロジェクト期間を終えたが、4CARE および SKOS は MF が維持を継続している。今後の焦点は、両 DB の RDF/LOD 化のさらなる進展、永続識別子運用とライセンスの一層の明示、ならびに Papyri.info、Trismegistos、PAThs[15]との粒度の高い相互運用の進展にある。データモデル自体に研究仮説を埋め込みつつ、文字資料・物質資料・地理情報・年代情報を同一基盤上で連動させ、歴史叙述の条件そのものを問い直した DEChriM の実践は、データ設計と歴史叙述の不可分性を考えるための優れた範例である。
前回の連載では、エヴィデンスギャップという用語を用いて、人文学や自然科学など、学問体系が異なるとデータの扱いも異なるという例をみた。DH という学際的な領域では、どちらのデータ体系を使うべきか、混在させてよいのか、あるいは一方に寄せるべきなのか判断に迷う場合がある。計量分析の研究であれば言語学的な厳密さをもってデータを扱えばよいだろう。だが例えば大量の文学テクストからパターンを見出す遠読を行うとともに、いくつかの文学テクストを注意深く精緻に読み、精読によって内容を理解することが必要となる研究の場合はどうか。マーガレット・コーエンが「読まれざる巨匠 (the great unread)」と呼ぶテクストを扱う例で示した、人跡未踏の文学的価値を見出すような研究がその一例といえるだろう[1]。今回は、文学のデータを扱う際の、データと価値の関係についてみてみたい。
読まれざる巨匠という用語の日本語訳は、秋草俊一郎訳のフランコ・モレッティの『遠読』の言葉を使っている[2]。この用語自体は、まだ研究されていない数多くの文学作品として使われたり[3]、あるいは大規模な文学テクストのアーカイブを意味する言葉として使われたりする[4]。モレッティは「文学の屠場」と題する論文の中で、コーエンに依拠しつつ、既存の規範作品にあてはまらない文学的価値とスタイルを持ち、もう一つのありえた文学史で古典的名作となったかもしれない作品の意味で用いている[5]。コーエン自体は、「偉大な未読(読まれざる巨匠)を構成するすべてのテクスト」[6]という言い方をしており、また文脈からも、既存のカノン(後述)や文学的価値、趣味判断にあてはまらない価値をもつテクストを意味しており、精読し研究すべき価値のあるテクストの意味で用いていると考えられるだろう。読まれざる巨匠という訳がつけられた所以である。
文学の用語では有名なフレーズが引用され言葉遊びとして用いられることがよくある。読まれざる巨匠という言葉も F・R・リーヴィスの著名な書物『偉大な伝統 (The Great Tradition)』からとられた一種の言葉遊びであろう。リーヴィスが述べる偉大な伝統とは、リーヴィスにとっての、イギリスの創造的な作家に共通にみられるある特徴である。それは誰にも似ない、その作家独自の創造性であり、人間の意識を変革し、文学の形式や技法を新たにする。リーヴィスの『偉大な伝統』は、冒頭の偉大な小説家の名前の羅列に始まる有名な文とあいまって、初期のカノン形成に影響を与えた[7]。リーヴィスの偉大な伝統は、他の作家の模倣をしない独創的な才能を持つ作家の系譜の意味だが、コーエンやモレッティは、いまだ読まれず埋もれている未発掘のカノンの意味で用いているといえる。
先にカノンという言葉を使ったが、この言葉は文学の分野では特殊な意味を持つ専門用語であり、1980年代に特に盛んに議論された概念であるという[8]。ギリシア語の物差しとキリスト教の正典の言葉に由来し、文学の分野では著者が同定された真正な作品(「シェイクスピアカノン」など)または古典的な名作(「世界文学の名作」など)という意味で使われる[9]。作品間の優劣といった価値判断や教授資料の選別といった実際的な問題から、カノンの概念は選択と排斥を伴う。したがってカノンとされるテクストは人種、ジェンダー、階級によって左右され、また支配的社会集団か従属する集団かといった区別に関連するとされた。またジョン・ギロリーは、著者や読者が文化生産の手段にアクセスできるか否かをカノン形成の条件とした[10]。カノンとは、ある国や文化の代表的でスタンダードな作品を表す用語であったが、女性の人権や公民権運動、サイードのオリエンタリズムといった時代や価値観の変化を経て、それまでカノンとされた作品群は白人男性社会で構成された規範にすぎないとして再考を余儀なくされた。
カノンの再考は、同時に文学的価値への再考を促した。それまで不動の価値を持ち必然的な歴史の連続性をもって形成されたと考えられていた文学史は、ピーター・ガリソンが述べるように、偶然のものに変わった[11]。モレッティの「文学の屠場」で、ある女子学生が既存のカノンの判断基準に依拠して読まれざる巨匠を探そうとしても、カノン的でそれより劣った作品が見つかるだけだと批判したように[12]、読まれざる巨匠とは、連続性を持ったカノンの規範の外にある作品であり、したがってコーエンが述べるように、それらに固有の価値を、それらが書かれた時代の読者の趣味や教養や知識のネットワークの視点から探す必要がある。あるいは少なくとも、既存の価値体系や概念から抜け落ちた残余の概念やパターンに目を向け、忘れられた美学を探す必要があるだろう[13]。
以上みてきた、コーエン、モレッティ、ギロリー、ガリソンの、理論やアーカイブ、カノンの議論から、少なくともいえることは、テクストからなるデータにはテクスト外の文学的、社会的、審美的要素からなる価値が含まれるということである。テクストのデータは決して均質に数値の満ちた空間ではなく、時代、地域や社会的属性をもつ人間が投影した価値を含んでいる。例えば18世紀桂冠詩人トマス・ウォートンの作品が、当時は一世を風靡したものの現在ではあまり読まれないように、テクストのデータには、ある時代、場所、人種やジェンダーや社会階級に属する人間が認める価値が、テクストというデータ自体あるいは受容する人間の側に埋め込まれているといえるだろう。自然科学や人文学の他の分野におけるデータに同様の価値が含まれているかどうかは定かではないが、DHで文学のテクストをデータとして扱う際には、価値に対する意識に目を向ける必要がある。
今回は、読まれざる巨匠とカノンの概念をもとにDHの文学テクストにおけるデータと価値を考察した。次回は、人文学とデータにまつわる残りの論点をみたい。
5月31日、東京・芝の増上寺にて、「大本山増上寺三大蔵ユネスコ「世界の記憶」国際登録記念シンポジウム ~大本山増上寺三大蔵がもたらす未来~」というイベントが開催されました。
このイベントは、増上寺が所蔵する三大蔵、つまり、中国の宋、元に加えて高麗において刊行された3つの仏典の叢書がユネスコに世界の記憶に登録されたことを記念するシンポジウムでした。これらの仏典叢書は大蔵経と呼ばれ、宋版大蔵経5,342帖、元版大蔵経5,228帖、高麗版大蔵経1,357冊というそれぞれに膨大な数の経典群です。徳川家康がこれらを増上寺に寄進したことがこの話の始まりであり、これほど古いものがこれほどまとまった数で一カ所に集まっていること自体が希有なことでした。しかしながら、これが世界の記憶として登録されるに至ったことには様々な文脈があり、なかでも人文情報学として非常に重要なことが2点あります。一つは、これらを底本・校本として世界初の活版印刷の大蔵経をはじめとして2度に渡る大蔵経の校訂編纂が行なわれ、結果としてそれが国際標準の典拠テキストとなったことです。そしてもう一つは、これらのすべてがデジタル画像としてIIIFに対応する形式で公開されたことです。デジタル化・IIIFを通じてこの貴重な資料を広く活用できるようにしたことは、「世界の記憶」としての意義を高めることであり、これも大きく評価されたものと思われます。そして、実際に、現在これらの画像は「令和大蔵経の編纂」という研究事業の主要なデジタル資料として活用されるに至っています。
シンポジウムでは、こういったことにも触れつつ、大蔵経を伝えていくことの意義について、3名の著名な仏教研究者の先生方による講演があり、筆者もコメンテイターとして若干のコメントをいたしました。デジタル時代、そしてAIが到来しつつある時代に、人文学が専門知を提供していくことにどのような意味があり、それをどう位置づけていくか、ということはすでに重要なテーマですが、今後、それを人文学者の間で共有できるような形で言語化していく必要があるかもしれないと思いつつ、議論に参加しておりました。
シンポジウム全体としては、よく整理された進行で、来場した方々にも楽しんでいただけたのではないかと思っています。
今月は他にも色々な興味深いイベントがありましたが、また機会をみつけてご報告したいと思います。